さて、今日は仕事でも生きるうえにおいても、やりごたえって面白さに直結してるよねという話題です。
これは最近よく感じることなんですが、人間ってやっぱりなにか目の前に課題があって、その課題を次々とこなしていって、もしかしたらできないかもしれないけど、やりようによってはできるかも、なんて思いながら障害を越えていっているときが、仕事でも生きているうえにおいても、一番充実している瞬間なのかな、なんて思ったりしています。
僕なんか生活のなかにおいてもそうなんですけど、普段の仕事においても自分のメモリ一杯を使ったような、余裕のないバタバタした毎日ですし、その仕事も定時上がりで家に帰れば兼業主夫として、小学校低学年の年子の子ども達の面倒を見ながら、ゴハンの用意やら、家事に追われていますし、さらにその上副業としてこのブログを更新するために、毎日ネタを考えて、文章を打ち込んで広告を差し込んだり、もっと内容を良くできないか考えてみたり、本当に忙しい毎日を過ごしているわけなんです。
ですけど、逆にこの生活が自分にとっては、充実した毎日と言えるのかもしれません。
僕自身と息子もですが、先天的なADHDやら、生まれつきの低緊張やら、いろいろなしがらみを抱えていますけど、そういうものに抗いながら、工夫をこらしながら、日々を過ごしているわけなんです。
息子は息子で、定期的に専門の病院に通って、先生からカウンセリングを受けていますし、学校に行く前は、軽い筋トレとして、腕立て、スクワット、腹筋なんかを15回ずつやってみたり、僕は僕で、仕事が休みのときにはジョギングや筋トレを続けていたり、まあ日々の営みのなかで、神様を全く信じていない無宗教の僕なんですが、祈りをささげるにも似た行為として、自分のなかの愛しい日々を守るために、そういったことを延々と続けているわけです。
でも、結局これが自分の日々を構成する大事な要素になっていて、そういうものをすべて失ってしまったら、それはもう自分の人生とは言えないような気がするんですよね。
なんか以前にFIRE(financial independence retire eariy)を達成した方がコメントで、嫌な仕事をしなくて済むようになったからと言って、それが即ち幸福につながるかと言えばそうではない、しがらみを失った分は逆に虚無感として襲い掛かってくる、みたいなことを話していた記憶があって、なんだか普通の人と別の次元にいる人の感覚はよくわかんないな、なんてその時は軽く聞き流していたんですが、たぶん僕も自分のしがらみが全部なくなってしまって、例えばゲームの世界をコンプリートクリアしたような世界のなかで過ごしていたら、そういう感覚に陥ってしまうんだろうな、なんて最近は感じたりしています。
だから、たぶん僕はいま、いろいろとやることや課題みたいなものがたくさんあって、それはとても大変だけれども充実していて、面白いと感じられる世界を生きていられていることに、とてもありがたさを感じているんですよね。
ものごとって、結局は捉え方次第で全然変わってくるものなのかもしれませんね。
以上、仕事でも生きるうえにおいても、やりごたえって面白さに直結してるよねという話題でした。