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学ぶこと、求めることの貴さ 蒙を啓く(もうをひらく)って結局どういうことだろう?

さて、今日は学ぶこと、求めることの貴さ 蒙を啓く(もうをひらく)って結局どういうことだろう?という話題です。

とはいえ、別におこがましいことは言うつもりもありませんし、ただ単にいつも通り、僕の日ごろ考えていることを書いていこうと思います。

やっぱり、この年くらいになってくるとですが、学生の頃のように勉強を自発的にするようなこともだんだん減ってきて、逆に学ぶこと、求めること自体の姿勢がすごく尊いんじゃないかな、なんて思うことがよくあります。

その人の身体、ハードウェアの部分が、その人の日々の食事の食べたもので構成されているみたいに、その人の内面、ソフトウェアの部分は、その人の日ごろの知識や経験、性格なんかで構成されている訳で、例えば職場なんかで務めていると、その職場にとって、不具合になるようなことの禁足事項や、利益を追求するようなことばかりが重視されていく傾向にありますよね。

別にそれが悪いとかの話では全然ありませんが、あまりにそういうことに凝り固まった人なんかを見ると、視野が狭い人だなあ、なんて感じることもあったりします。

人として、視野の広い人だと感じるパーソナリティを持つ人って、やっぱり知識量が多くて、多面的なものの見方ができる人だったりしますよね。

僕なんかでも、肩書き自体は高卒なんですけど、思春期くらいからハマった世界史のおかげで、普通の人よりは、近代史、とくに第一次世界大戦、第二次世界大戦の知識なんかには詳しい方でして、その思春期の当時傾倒していた、浦沢直樹先生の漫画、「マスターキートン」や、NHKのドキュメンタリー番組「映像の世紀」なんかはかなり影響を受けましたし、それはいまの自分の血肉となり、自分の本流の流れのなかに組み込まれているとさえ感じているくらいです。

また、アプローチの仕方は全然異なりますが、僕の妻なんかは本を読むのがとても好きな人で、いろんな方面の知識を片っ端から吸収するのが得意で、なにか有名どころの書籍なんかはどんどん読破して、知識を深めていくような感じの人なんですが、そういうことが当たり前のようにできる妻を尊敬していますし、僕は同じように本を読んで真似をすることはできませんが、

今でも、日本史や世界史、時事ネタを収集していくのが好きで、日課の嗜みにしている部分がありまして、例えばYouTubeなんかで面白くてわかりやすい解説をしている動画なんかがあれば、ピックアップして車で通勤途中なんかで聞き流してインプットをしたりしています。

最近はあまり動画をアップする頻度が減ってしまって、ちょっと残念な中田敦彦さんの動画なんかも、とても分かりやすく世界史や日本史、時事ネタの全体像を捉えて説明してくださるので、とても参考になりいつも楽しく勉強させてもらっています。

とくに、日々の生活のなかにおいて、なにかしらの新しい風を吹き込んでいくというのは、とても大事な要素だと僕は感じていて、そういうものがないと、日々が退屈で窮屈に感じてしまうと思うんですよね。

なにかしらの目新しさ、自発的な求めというのは一種の希望であり、それは常に僕を動かしていってくれた原動力だったような気がします。

シングルマザーの母に育ててもらった時に、世界史の魅力に触れた際の自分自身の世界の広がりとか、身一つで他府県に転勤して、取り組んだ婚活の悪戦苦闘ぶりや、妻との出会いと交際、結婚とか、息子や娘の誕生や、育児なんかがそれに当たると思いますし、

今取り組んでいるこのブログなんかも、悪戦苦闘しながらも結局は同じように思えますしね。

成功するか失敗するかわからないなかで、何かを学んだり、求めていくこと、蒙を啓く(もうをひらく)って、暗闇を切り開くという意味だそうで、そうやって掴んだ成功や失敗談なんかが、その人の血肉や本質になっていくんじゃないのかな、なんて思ったり、尊さを感じる今日この頃です(笑)

以上、学ぶこと、求めることの貴さ 蒙を啓く(もうをひらく)って結局どういうことだろう?という話題でした。